こんにちは、trans(トランス)です。
今回は、私が高校時代に経験したイップスの話をしていこうと思います。
まず、この記事を読む前に知っておいて欲しいことは、イップスを直す方法はないということです。
しかし、上手く付き合っていくことならできます。それは、イップスになった原因を見つけて向き合うことです。
このようなイップスとの付き合い方について、私の経験談を「イップスになる前」,「イップスになっているとき」,「イップスと上手く付き合うことができている現在」の3つの章に分けて話していこうと思います。
これは、あくまで私の個人の意見と思って読んでいただけたら、幸いです。
それでは行きましょう!
1、イップスになる前
まず、私がイップスになる前の話からしていきます。内容的に以前書いた「人を成長させる劣等感」と被るところもあるので読んだことのある人は、被っているところは飛ばして読んでください。
私は、小学1年生の秋に野球を始めました。最初は、練習についていけず、苦しい日々が続きました。また、野球も上達せずに面白くありませんでした。しかし、投げることだけは上手くできました。そして、左利きということもあり、小学4年生のころからピッチャーをやり始めました。
そして、中学では硬式野球のクラブチームに進みました。同じ学年の投手陣は怪物ぞろいで、私が付け入る隙はないように感じました。しかし、自分で考えて、何か1つでもいいから勝てる武器を持とうと思いコントロールを磨くことにしました。
その結果、安定したコントロールを得て、球のスピードは遅かったですが、試合で大崩れせずに、安定して試合を作れるようになりました。その結果、一時期エースになることができました。また、南関東(クラブチームでの神奈川県と静岡県を合わせた呼び方)で3位になるなどの成績も残しました。
自分で考えてフォームや投球術,コントロールなどを身に付けて、試合で結果が出た中学時代は、今思えば私の野球人生の中でピークだったのかもしれません。
中学野球を引退後、私は様々な私立校からの推薦や特待の誘いを断り、神奈川県でベスト16という結果を出していて文武両道を目指していた先生のいる公立校に進学をすることを決めました。私の中で強い私立を倒したいという願望もありました。そんな夢や希望を持った私が、イップスになり、高校時代に地獄を見ることになるとは当時は全く思いませんでした。
そのことについては、次の章で書いていきます。
2、イップスになっているとき
この章では、イップスになったきっかけや、なった後の地獄の日々について話していきます。本当は、思い出したくもないのですが、今自分と同じ思いをしている人を1人でも多く救えればと思い書いていくことにしました。
中学で結果を出していたこともあり、期待されて高校に入学しました。私自身も活躍してやろうと思って、入学しました。最初は、入試でなまった体を治すための基礎体力系のメニューでした。私は、入学前から志を高く持っていて入試後すぐに体力作りをしていたので、難なくこなしていました。
また、その後の実力を見るテストのようなものも、自慢のコントロールを大いに見せることができました。かなり良いスタートが切れた正直思っていました。
そして、テストで実力を見せたこともあり、3年生(私は当時1年生)の試合に出させてもらえることになりました。その日はダブルヘッダーで1試合目と2試合目の間に2試合目で投げることを告げられました。2試合目の前の昼休憩の間に、少し指導したいからと言われ、ピッチングを見てもらうことになりました。
そのときに、「今のままだと上に行って通じないからフォーム変えた方がいい。足をもっと速く上げて投げないとランナーに走られてしまう。」と言われ、フォームを、その日にいきなり直すことになりました。ゆったりとしたフォームから出所が見づらく、急に球が来たように感じさせるのは私の中学時代の持ち味でした。
当時はこの指導に関して違和感を持ちましたが、結果を出している指導者であったので信じて自分のフォームを変えることにしました。今思えば、これが全ての始まりでした。
その日は当然結果が出ず、さらにキャッチャーからのサインをクラウチングで見るのも理由を言われないまま止めさせられました。完全にリズムを失った私は、それ以降も結果が出ず、自分のフォームが分からなくなっていきました。そんな状態のまま、3年生が引退し、代が変わりました。
1つ上の代は人数が多くなく、1つ下の私にも出場機会が与えたれ、フォームは分からないなりに、中学時代の投球術で、ある程度の結果を残すことができました。そして、1年生のときの秋季大会では背番号10を付けました。しかし、大会での登板機会は、ほどんどなく、あっさり敗退し、冬のトレーニングになりました。
冬のトレーニングは、とても苦しかったです。しかし、イップスになった後の方がもっと苦しかったです。
冬のトレーニングも終わり、春に向けて少しづつボールを使ったメニューが増えていきました。そのときにやっていたトスバッティングで私が捕ってすぐ投げるといったことをゆっくりとやっていたため、怒られました。これは別に私が悪いので何とも思わなかったです。
その後、しっかりできていなかった罰として、私以外の全ての選手が見ている前で、トスバッティングをやらされることになりました。その1球目を右打者の足元位に引っ掛けて投げてしまいました。それについて怒られ、委縮してしまいました。そして、それから何球投げても自分と打者の間でワンバウンドを投げてしまいました。
いくらストライクを投げようとしても、リリースできなくなりました。このとき始めてイップスというものを肌で感じました。これには監督も何も言わず、不穏な空気のまま終わり、次のメニューのキャッチボールに移りました。しかし、キャッチボールは普通にできました。なので、このときは、あまり気にしませんでした。今思うと、委縮して投げられなくなる動機づけが初めてされた時でした。
この後は、イップスの症状は全く出ずに、私自身も限定的なものだと思っていました。春の大会に向けて組まれました練習試合で、私は秋同様に、フォームは分からないなりに、中学時代の投球術で、ある程度の結果を残すことができました。そして、春の大会でも背番号10を貰うことができました。春の大会はベスト32まで行くことができました。
春の大会が終わり、夏の大会に向けた練習や試合が始まりました。正直、春の大会は、夏の大会のシード権を決める程度なので、夏の大会が本番です。そのため、夏の大会が近づくほど、雰囲気がピリついていきました。特に、当時の1つ上のキャプテンは厳しく怒る人でした。
そんな日々の練習試合で、私は投げることになりました。ヒットを打たれたあと、ランナー1塁で、けん制のサインが出ました。何としてでも刺すという気持ちがあったのだと思います。けん制で悪送球をしてしまいました。当然、キャプテンに怒られました。委縮しました。そして、次の打者に1球もストライクを投げることができずに、フォアボールを出し、そのまま交代となりました。これが2回目の動機づけでした。
その後も、キャプテンに怒られないように委縮して野球をやっていたため、結果を出せずに、私が2年生のときの夏の大会はベンチ外になりました。この期間に、動機づけは何度もされました。
2年生のときの夏の大会は何もできずにスタンドから見ていましたが、春にコールド勝ちをしたチームに大敗しました。なにもできず、とても悔しかったです。ひとつ上の先輩が引退しました。その帰りにある先輩が、「原点に返れ」と最後のアドバイスをくれました。
委縮の原因のキャプテンもいなくなり、「原点に返れ」というアドバイスをもらった私は、「強い私立を倒したい」という目標と、「中学時代のゆっくりとしたフォームに戻す」ということを決め、最高学年の新チームで練習を始めました。しかし、新チーム初めての打者を立たせた実践練習で、結果を出せず、結果ではなくフォームをゆっくりにしたことを監督に激怒されました。
しかし、「原点に返れ」というアドバイスは私の中で決心を強くしたので、フォームは中学時代のままにしました。しかし、そのせいで結果を出さないと怒られるというプレッシャーが強くのしかかるようになりました。
そして、急に私が3年生の春になった練習試合のあるときにプレッシャーの糸が限界を越えて切れました。初めて、投げるのが怖いと思いました。こうして私は、委縮して投げられなくなる動機づけと極限のプレッシャーを受けてイップスになりました。そして地獄が始まりました。
打者に対してのみならまだしも、普通のキャッチボールもできなくなりました。ボールが手から離れないのです。どうやっても地面に叩きつけてしまうのです。当然、同級生や下級生からもバカにされました。あいつは投げられないと。
監督もピッチャーとしては使えないことを見越して、代打で試合に出させてもらいましたが、投げることしかできない私は全く結果が出せませんでした。そして、そのたびに試合に出られなかった私以外の人から文句を言われました。なぜ、投手のお前が代打の出場機会を奪うのだと。
こうして野球人として何もできなくなった私は、3年生最後の大会もメンバー外となり、引退しました。メンバーから外れた時は涙が止まりませんでした。何をしに公立校に入ったのだろう、なんでこんなに無力だったのだろうと絶望もしました。
そして心がモヤモヤしたまま、メンバーに選ばれた同学年の練習を手伝いました。そして、あっさりと負け、私は完全に引退しました。
高校入学時には、大学でも野球をやりたいと思っていましたが、公立校でメンバーにも入れずイップスにもなった私は、二度と野球はやらないと決めました。
こんな地獄を見てきた私ですが、この後、イップスと上手く付き合うことができるようになり、立ち直ります。それは、次の章で書くことにします。
3、イップスと上手く付き合うことができている現在
引退して時間と共にイップスになり、絶望したことが薄れると思いましたが、そんなことはありませんでした。夢にも出てくるほどでした。しかし、卒部式の前に行う下級生との記念試合で地獄を脱することができました。
実際、記念試合は遊びです。なので、全くプレッシャーはありません。監督も何もいいません。なので、私は中学時代のリズムで投げました。サインをクラウチングで見て、足をゆったりと上げて投げました。そして、高校時代で一番良いボールを投げ込むことができました。
その結果、バカにしていた後輩を打ち取ることができましたし、同級生にも「ナイスボール」と言ってもらえました。そして何より監督に、「選手を型にはめて同じプレースタイルにするやり方は私には合わなかった」ということを記念試合のピッチングで伝えることができました。
このような出来事によって、過去のトラウマを払拭することができました。
記念試合で良いピッチングをしてイップスを克服したことから、解決策としてはイップスになった原因を見つけて向き合うことであることに気づきました。
私の場合は、委縮して投げられなくなること,極限のプレッシャーが原因となりました。正直、現役のときに、これに気づいて対処していたらどうなっていたのかと今も思います。「たかが野球だから楽しもう」と思ってやれていたらよかったと思います。
その後、二度と野球はやらないと思っていた考え方を改めて、大学で遊びのサークルチームではありますが所属しました。今は、地元の早朝野球のチームで楽しく野球ができています。正直、今でも過去のイップスがキャッチボールなどで暴投を連発するとフラッシュバックすることがあります。しかし、野球を楽しもう,たかが遊びだと思い、上手く付き合って行けていると思います。
イップスで苦しんでいる人の多くが真面目に野球を取り組む人だと思います。野球が好きな人が多いと思います。だからこそ、過去のトラウマ(原因)と向き合って、上手く付き合っていってください。
投げられなくなってもたかが野球です。また、投げれなくても打つこともできます。思いつめずに、楽に行きましょう。死ぬわけではないです。ポジティブに行きましょう。1人でも多くの人が、この記事を読んでイップスについて、考えて向き合ってくれれば嬉しいです。
今回の記事は以上になります。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。